時事問題 Feed

2024年4月 9日 (火)

前回から少し間が空いてしまいました。「どうしたのかな?」と思ったかたも多いと思います。最近数ヶ月は何度も「いつもブログを読んでいます」という声かけも頂戴しました。

  • ホームページがあるかどうか
  • ホームページの見栄えがよいか
  • 内容が充実しているか
  • 最新の情報に更新しているか

によって、企業イメージが決まることが常識になり、大学の研究室も同様という見方が多くなったこともありますので、できるだけコンスタントに書いていきたいと思います。特に、新学部4年生(B4)の卒研室選びの時期ですかり、研究内容も充実していきます。

今日のお話は、学生さんの指導の際に使ったたとえ話「研究は100kgのバーベルを挙げる努力と同じこと」です。指導をしていて、ふと頭に浮かんだたとえ話だったのですが、理解が得られたので、ご紹介します。

大学院修士課程の新1年生は、修士課程2年間の目標と計画を立て大学に提出する必要があります。すると、「先輩が書いた計画書を若干変更するだけ」や、「すぐに終わる誰でもできそうな内容(既に取り組み結果が出ている内容など)」を提出する学生が多くいます。その理由の多くは、「自分にできるか不安(大変な努力が必要になったらどうしよう。できなかったらどうしよう。)」があるからのようです。書き直しを指示すると、どうすれば良いかわからないから書けない。計画が立たないから勉強もできない、と言い出します。

そこで、突然頭に浮かんだたとえ話が「100kgのバーベルを挙げるためには」でした。

「100kgのバーベルを挙げることが、修士号を取得するための条件だと仮定しましょう」。実際、知識も経験もほとんどない新1年生には、修士論文を書くための研究成果を得る事は、100kgのバーベルを挙げるくらい困難なことです。

100kgのバーベルを挙げる技術で社会へ出る=修士号を取得して就職する、と自分で決めた(進学を希望し入学試験を受験する)にもかかわらず、いざ、100kgのバーベルを挙げるためのトレーニング計画書を書きなさいと指示すると、「自分には100kgも挙げられるか不安。だから、目標を1kgに変更します」と言い出す。何か矛盾しませんか?1kgは、バーベルを触ったこともない私でも挙げられると思います。つまり、ジム(大学院)で専属トレーナー(大学教授)に指導を受けながらトレーニング(勉強)する必要はありません。1kgへ目標を変えるということは、修士号取得をあきらめるということに等しくなります。そう説明すると、今度は、「いろいろ調べましたが研究計画書を書くためのアイディが浮かびません。だから勉強が進みません。」と言い出す。これは、「100kgのバーベルを挙げるためのアイディアが浮かびません。だからトレーニングができません」と言っているのと同じでは?と説明しました。

そうですよね、目標が100kgであれ、50kgであれ、まずは基礎筋肉トレーニングが必要です。トレーニングを重ね、徐々に重量を挙げていくうちに、筋力も付き、要領もわかるようになり、そして初めて、100kgの壁に挑む準備と、そのための努力の仕方が見えてくるのです。自分には100kgが挙げられるか不安、とか、不安だからトレーニングもできない、という人の結果は決まっています。「100kgのバーベルをあげる=修士号を取得する」と一度決めた(進学を自ら希望した)のです。だったら、つべこべ言わず、地道なトレーニング(勉強)にまず取り組む事が何よりも大切です。そしてようやっと、何をすれば100kg挙げられるのかが少しずつ見えてくるのです。

ちなみに、後日調べたところ、100kgのバーベルが挙がるまでには1~2年のトレーニングが必要だそうです。多くの人が80kgまでは挙がっても、そこから100kgへ挙げるのには、更なる努力が必要になり難しいのだそうです。我ながら良い例だったなぁと感心した次第です。(日本の修士課程は2年間なので)

最後に、昨今は、「修士号を取得するのは100kgのバーベルを挙げるに等しい」なんて、そんな怖いことを言うな。学生がおびえて恐縮するだろう。余計に不安をあおる言動だ。などと主張する保護者や教員が多くなりました。そういう主張をする方々に、だったら人生の厳しさをどう教えるのですか?と問うと、「100kgのバーベルをあなた(先生)が代わりに挙げれば良い」とか、「怖くないよ、怖くなったら、(先生がつきっきりで)守ってあげるから」と言うべきだとおっしゃいます。何か違いませんか?野生動物が生まれた瞬間に歩き出すのは何故ですか?独り立ちの時期になると、放置したり野に放つのは何故ですか?

数十年後に、自分では何もできない大人ばかりになったとき、何が起こるのでしょうかね?その時に、そんな未来の大人を作った今の大人達はどう反論するのでしょうかね。私はもう何度も聞いています。「その頃には自分たちは生きていないから関係無い」と彼らは言います。それこそ無責任で恐ろしい行為です。

約80年前まで、日本国憲法が施行される前の大日本帝国憲法の時代、婚姻した女性は法的無能力者として意思決定権を有しませんでした。このことに疑問を呈し、婚姻をせず、自分の力で生きていく選択をしようとする女性に対し、人々は、「そんな怖い選択絶対にやめろ。苦難しかない。婚姻によって男性に守られる人生こそ幸せであり、そうすべきだ」と諭したと言います。私には、「100kgのバーベルなんて怖い話」と言い立てる人々の認識は、80年前のこの認識と全く同じに思えます。

2023年10月15日 (日)

先日、「つぶやき:考える力がもたらす判断力」を書きました。実は、1年間に起こった重要な出来事の全てにおいて判断誤りをした人に遭遇したことがきっかけでした。おそらく、一般的な大学卒の平均的な知能を有してさえいえれば、このような判断はしないと思われることから、考える力の不足がもたらす判断力について書いたのでした。その後、様々に調査した結果、これが「浅慮」というものであり、そして、この「浅慮」は、それ自体が病なのでは無く、ある種の病がもたらす産物であることも分かりました。

浅慮の悪魔との遭遇

浅慮(せんりょ)とは、思慮の浅いこと。浅はかな考え、と広辞苑の第六版には記載があります。

実はこれまで、浅慮な人々と直接的に関わり、その結果、苦労したという記憶がほとんどありませんでした。それは、深く関わらずに済んだからなのかもしれませんし、浅慮な人が、私のいる特殊な学問中心の環境に対応できなかったからかもしれません。そのため、私自身、浅慮がもたらす影響がこれほどに大きいという事に正直衝撃を受けました。そして、浅慮に対する軽視が、社会問題にもなり得る事を理解しましたのでつぶやくに至りました。

浅慮の悪魔がもたらす社会のひずみ

浅慮を検索すると、「集団浅慮」や昨今のSNSにおける誹謗中傷行為がエスカレートする人の思考の傾向が記されたサイトがヒットします。このことから、「浅慮」が社会にひずみをもたらす要因のひとつになっていること、また、そのことに気づき、警鐘を鳴らしている人々がいることが認識できます。

私の実体験からいうと、浅慮な人との関係性がどのようなものであっても、ともに協力して何かの仕事を成し遂げるのは大変な苦労を強いられるということです。単に、考える力が不足しているために問題解決能力が低い、というだけであれば、例えば先輩がサポートをするといった事で解決できそうに思えますよね。しかし、実際には、先輩を含め周囲のアドバイスや指示を排除したり、倫理観や道徳心に欠ける行動を安易にしたり、相手の気持ちを考え配慮することができなかったり、そして、それらの事を注意しても改善されることはないため、繰り返し同じような不快で不可解な行動をとり続けるから大変なのです。

子供の浅慮は、根気強い教育によって改善も可能でしょう。しかし、大人の浅慮は自分自身で気づく事が極めて困難であり、浅慮であることに対し、本人は自分の長所であると考えても、決して短所であると考える事はしませんので、関わる人にとっては悪魔でしかないのです。

考える力の不足と、都合の良い解釈

浅慮な人の特徴は、検索してみるといろいろと出てきます。浅慮というよりは、思慮が浅く軽薄な人といったキーワードで検索した方が的確にヒットするかもしれません。

彼らの特徴は、要するに「考える力不足」から起こるパーソナリティーだといえます。したがって、自己愛性パーソナリティ障害に似た特徴が複数あります。調査したところ、浅慮だから自己愛性などを含むパーソナリティ障害を引き起こすのではなく、そもそもパーソナリティ障害がある人の特徴の一つに浅慮があるようです。パーソナリティ障害でなくても、様々な要因で浅慮になってしまうことがあり、その結果、社会性に欠ける行動をとってしまうようです。

具体的な例を示しましょう。

一つの特徴として、道徳や倫理を無視するというのがあるようです。

例えば、ルールや規則に対し、「警察に逮捕されなければ破っても良い」や「ばれなければ良い」といった考えを持ち、安易に破ることがあります。

また、共感の欠如がみられ、自己中心的な発言を繰り返します。

例えば、ルールを破った際に、「ルールを破ると関係者が困るのですよ」と説明しても、他者が困るということに対して共感ができません。そのため何度説明しても、同じ過ちを繰り返します。更に、過ちを認めたり、謝罪することはありません。自分は正しい、何が悪いのだと思っているようです。

適切な人に相談することはなく、アドバイスは完全無視

その上、適切な人には相談はしませんし、周囲のアドバイスには耳もかしません。例えば、上司と部下の関係にあり、部下が浅慮な場合、この部下は、上司に相談をしたり報告をしたりを常に怠ります。その上、無断で社内の情報を部外者へ口外し、その部外者からの助言に従った行動をします。そんな状況を心配して上司がこの部下に親身になってアドバイスをしても、完全に無視をします。困ったことに、それは良くないよ、どうしてそんなことをするの?という問いかけには全く応じません。自分が悪いことをしたなどという見解には至らないからでしょう。それは、上司が何度も繰り返し、注意したり改善をするように指示してもです。

では、どうしてそうなるのか?

幻想とも思える楽観主義者で、自分の考えは無く、人の言葉を曲解して自分を肯定したり、周囲のアドバイスはシャットアウトしたりするという特性があるからです。

極端な楽観主義に惑わされる

彼らが極端な楽観主義者であることは、一見良いようにも思えますが、実は、深刻な問題やトラブルを招きます。

例えば、深刻な事態が発生しても、気にも留めず陽気に振る舞います。また、何も考えずに安請け合いしたり、いつも笑顔で返事だけは良かったりしますので、爽やか系で人当たりが良い人と勘違いされる事が多いです。しかし、実際は全てがその場しのぎですから、自分の言動に責任を持つことも、その言動をとった結果、将来的に何が起こるのかも、全く気にしません。また、トラブルや問題が起こっても、自分の言動が原因だとは思いもしませんし、自分の言動すら憶えていないこともあります。

失敗やトラブルに対し、原因の究明はしない

楽観主義だからなのか、記憶がないからなのか、その場しのぎの言動しかしないからなのか、失敗やトラブルが発生した時に、原因を考える事は一切しません。ですから、どうしてそのような事がおきたのですか?と質問しても返答できません。そして、原因を言わないと先に進まない状況に追い込まれると、懲りもせずその場しのぎの発言をはじめます。

ここまできてようやっと、ああ、考える力がないのか、と気付きます。それでも、考える力がないことが、自分に都合の良い解釈しかしない、とか、周囲のアドバイスをシャットアウトする、ルールや規則を安易に破ることに何故つながるのか、正直最初はわかりませんでした。

この件を深く考察して思う事は、浅慮とはそれほどに恐ろしいことである、ということです。

どう対処するか

残念ながら、関わらないことが一番の得策でしょう。しかし、そうはできない場合にどうするか。おそらく、関わる側が大きな損失を被ることを避けるための対処をとりながら対応するしかないでしょう。また、浅慮であることがこの人物の人生であると考え、この人物にとって良い助言をしようとか、改善をもとめたりといったことは、考えないことです。また、トラブルや失敗が発生することを前提に、損失が広がることを避ける、つまり浅慮な人個人だけがうける損失だけに留まるようにコントロールしておくことが肝心だと思います。

浅慮に基づく言動がパーソナリティ障害と思えるほど深刻化してしまった人に対して、どれだけ手を差し伸べても、残念ながら改善は望めないのだな、と深く実感しているからこその意見です。

入試重視、創造性に欠ける画一化学校教育の弊害

今日ご紹介した「浅慮」も、大学入試に合格する事だけが目的の、暗記に重点を置いた、そして、考える事をさせない、画一的で創造性にかける学校教育の弊害の一つです。現に、入試問題を「考える問題」にすべく試行錯誤が進んでいます。そうすることで、高校までの学校教育でも考えさせる教育が進むことを期待しての事です。しかし、長い間の暗記教育が、浅慮であっても、大学入試をクリアーし、大学教育におけるテストもある程度クリアーできる状況あることは残念ながら事実です。

今後、言語生成AIをはじめとする、生成AIが益々進化していくでしょう。

その中にあって、人間が人間らしい能力を発揮していけるのは、考える力だけなのではないでしょうか?

2023年8月20日 (日)

久しぶりにTED Talks(※)を視聴していたときの事です。

※TED TalksについてはTEDの公式ホームページをご覧ください。

最も視聴されたTalksを表示すると、Sir Ken Robinsonの「Do schools kill creativity?」だというので早速聴いてみました。

最近の学校教育に違和感を感じている人は多いのですね

このTalksが最も視聴されたということは、最近の学校教育に違和感を感じている人が多いということなのでしょうか?どういった興味でこのTalkを視聴したのかについての調査や検討は見当たらないので、そう結論づけるのは尚早でしょう。しかし、興味をもって視聴した人がこれだけ多いという事実は認める必要があります。

タイトルは「学校教育は創造性を殺してしまっている?」と訳されているようです。私としては、本Talkのポイントは、以下に整理されると思いました。

  • 学校教育が画一化教育に重きを置いた結果、創造性教育がなおざりとなってしまっている
  • 識字教育と創造性教育は分け、どちらも実施する必要性がある
  • そして、大学教育のインフレが進んでしまった今、知性の意味を抜本的に考え直す必要がある

先日も、私自身の大学教育現場における教育者としての経験から、考える力を培う教育が日本の教育現場ではなおざりにされ、その結果、自分の人生を自分の考えに基づき判断しながら歩むことができない学生が増えている事をつぶやきました。主にアメリカの教育について語っているSir Ken Robinsonも、私と同様に、これまでの教育がもたらした弊害に警鐘を鳴らし、教育改革の必要性を具体的に語っています。

画一化(標準化)教育と識字教育が学校教育の基本としたことの弊害

少し脱線しますが、2023年に放映されている「らんまん」という朝ドラについて説明してくれた知人の話を聞いたときのことです。(ちなみに私は視聴していません。)

武士の家系に生まれた男子だけが私塾に通えた時代、商家の生まれでありながら私塾への通学を許された主人公が、様々な事に興味をもって勉学に没頭することから話が始まったそうです。時が経ち、尋常小学校制度が施行され、私塾が閉鎖されたとき、尋常小学校では識字教育が主であったことから、国語(日本語)はおろか、英語も習得していた主人公には、「いろは」からの教育には興味が持てず、1日で中退。その後、学校教育を受けたことはないが、世界的に著名な植物学者となったという話の様です。知人から聞いた話ですので、もしかすると少し違っているかもしれません。

この話を聞いたとき、私は思わず、「私塾つまり、私立大学の設立理念はそこにあったはずなのに、現在においてはその役割を担っている私大は皆無のように思える」と発言しました。

この朝ドラを作っている人々が、世間に何を伝えたいと思いを込めているかは知りません。しかし、私が思ったように、以下の点に思いを込めて視聴すれば、Sir Ken Robinsonが伝えたかった事と同じ事であったように私には思えます。

尋常小学校の設立理念は識字教育であったのです。私が小中学生の頃には、日本の識字率は世界一であるといった事を誇る発言が良くきかれました。確かに、公立小学校の教育により、日本の識字率は、ほぼ100%なのでしょう。確かに、生きていくために読み書きは必要です。しかし、読み書きはできるが、それをどう活用するかについては教育現場で教えてこなかったともいえます。

ちょっと余談です。私の出身高校には、全日制だけでなく定時制もありました。その両制度の生徒が同じ教室を昼と夜にシェアするシステムでした。ですから、全日制(昼)の生徒であった私たちは、帰宅時に机の引き出しを空にし、教室を掃除して定時制(夜)の生徒達にバトンタッチするのです。中には、机の落書きで文通をする生徒もいましたね。とはいえ、定時制の生徒と関わる事はほとんどありません。文化祭(学園祭)が開催された時でした。普段は節点のない定時制の生徒が、全日制の文化祭に遊びに来ていたのです。確か、数学研究会の恒例の出し物であった、PC占いの手伝いを私はしていたのだと思います。そんな私に、定時制の生徒の一人が声をかけました。「ごめん、(全国有数のSランクの全日制生徒のあなたには)信じられんやろうけど、僕、本当に字が読めんとよ。ばってん占いの内容を知りたかと。やけん読んでくれん(博多弁です)」それも、明るく、ほがらかに、あっけらかんとこのことを告げるのです。読んであげると、とても喜んでくれた事を今でも思い出します。どんな事情で識字教育(義務教育)をうけることが出来なかったのかを聞く事はできませんでしたが、定時制に通いながら学ぼうとしている姿勢にも心打たれるものの、それ以上に、明るく「読んで欲しい」と言えることに尊敬さえ覚えたことを今でも思い出します。

「役に立つことを教えろ」と主張する人々

Sir Ken Robinsonも語っていますし、私も日常的に経験していることですが、「役に立つことを教えることを求める人」がとても多いです。まぁ、ほとんどの人がそうだと言えます。しかも彼らの役に立つは、私やRobinsonの考える役に立つとは違っているのです。

2023年4月にこんな事がありました。4月の講義1回目に参加した学生さんに私は問いました。「皆さんは、どのような理由でこの講義を受講しようと思ったのですか?」そして私はこう続けました。「これまでの大学生活を通して、先生がいろいろと説明していることを、ただ机に座って聴いているだけで、分かった気になり、期末テストに合格することだけを目的に講義を受けてきた人はどれだけいますか?」私から指名された学生が「自分は違う。」と言うので、私は彼にこう質問しました。「君は違うというけど、ノートも筆記用具も机に出していないね。じゃあ、君、私の説明は一度聞いただけで全て理解し記憶に留め、自力で運用する事ができるの?」彼は机の横に置いていた鞄をあさりだしましたが、あいにく、何かを書き留める紙すら一枚も持ち合わせていませんでした。そこで私は続けます「書き留める物を何も持参せずに講義をうける背景には、はやり、授業は適当に聞き流し、期末テストに合格すれば良いという考えがあるのでは」と。彼は不満そうな顔をしていましたが、案の定、授業後に、「先生の講義は、自分の将来にも就職にも何の役にも立たないので、履修取り消しをします」とメールが送られてきました。ちなみに、履修取り消しには担当教員へのメール送信は必要ありません。Web操作で簡単にできます。なお、大学院の選択科目での話です。

彼の将来や就職活動において、何が役に立つと、彼は考えているのでしょうかね?

私が彼に伝えたかったのは、期末試験に合格し、単位を良い成績で取得し、そして、卒業する事だけに重きをおいてはいけないということ。私は、学生のみなさんに、知識を自分のものにし、実際に運用することができるようになって欲しい。だから、この講義は、みなさんがこれまで受けてきた講義とは違い、期末試験にこれが出来ますよと説明したり、講義内容(授業中に用いたPPTなど)をPDFファイルで配布したりは決していない。常に君たちに考える事を促し、そのトレーニングをしながら講義を進める、とそうはっきり説明しました。それって、彼の将来にも就職活動にも何の役にも立たないのですかね?笑

大学教育はインフレ状態

Robinsonも言っているように、大学教育はインフレ状態です。これは、誰もが感じていることでしょう。だから、大学院に進学しなければ差別化が図れないと、多くの学生が思っている時代です。ここで疑問が生まれます、あなたは人との差別化のために大学や大学院に進学するのですか?

就職してリクルーターとして大学を訪問する卒業生達の多くは、仕事をする上で、これこれの資格や知識が必要なので、専門学校に通いながら頑張っています、と話します。仕事をしながらなので大変だとも言います。そうなんです、勉強とは、そして学校とは、本来、何かを学び身につけるためのもので、人との差別化を図るファッションではないのです。しかし、最近の大学教育は、皆が進学するから進学する、卒業すれば就職活動に有利になる、単に卒業できれば良い、ものになってしまいました。知識を身につけ、将来の役に立つように、運用できる事を目的にしている学生は少なくなってしまいました。

インフレ時代に生き残るためには

昔勤めていた国立大学で知り合った教員仲間からこんな話を聞きました。彼女は、私と同世代です。つまり、失われた20年(バブル崩壊後から低迷し底なし沼に経済が陥った時代から、リーマンショックが起こる数年前までを指し、人によって数え方が違います)の世代です。旧帝大を卒業すれば、一流企業の管理職に自動的に上り詰める時代は終わり、ほとんどの大手が新卒をとらなくなった時代ですね。彼女はこう言います。「そんな時代にあって生き残った私たちですよ。学歴ではなく実力があるのですよ」と。

そうなのです、必要なのは学歴ではないのです。その人自身が持っている実力なのです。

AIに仕事を奪われるとは

私は学生達によくこんな話をします。「期末試験に出る問題を暗記できるように教えろ」と苦情を言ってくる学生もいますけどね。皆さんにはおわかりですよね、それって教え(教育)ではないです。

最近、AIにうわばれる仕事が話題になっているよね。本当の意味知ってる?自分はそんな仕事には就かないし、関係無い、とか思ってません?と

ある日の授業中に、専門知識に関するある事を質問しました。学生の一人が、手を上げ、大きな声で、「○○です!」と元気よく答えてくれました。しかし、残念ながら私の教えたこととも、使っている教科書の解説とも違っていたため、「不正解」と伝えました。そして、私が講義中に教えたこととも違うし、教科書の解説とも違うね。どうして○○だと思ったの?と質問しました。すると、黙り込んでしまいました。後日、ゆっくり話を聞くと「手元のスマホで検索し、一番上にヒットした内容だった」とのこと。まぁ、私の事なのでそうであることは分かっていたのですが、この学生さんは、この事実をなかなか認めてくれず、本人の口からこの説明を得るには時間がかかったわけですが。

何故この話をするかというと、これこそが、AIに仕事を奪われるということだからです。

だって、学生達に質問した事は、授業で説明した事ですし、教科書にも解説があることですよ。しかも、学生達に取り組んでもらっている演習を通じて得た知識があれば、自分で考えることだってできた内容の質問だったのです。しかし、この学生さんは、スマホで検索をするという行動をとり、そこで1番上にヒットした情報を、真偽の判断もせず、鵜呑みにして、堂々と読み上げたのですよ。

自分の能力も知識も経験も、これら全てを使わず、AIに頼ったのです。

これが、AIに仕事を奪われるということです。

大学を卒業していようが、大学院で修士号や博士号をとろうが、その大学が有名であろうがなかろうが、自分の頭で考え判断することができず(せず)、AIに頼ることしかできなのですから。

AIが仕事を奪うという表現よりも、AIに使われる仕事と言った方が分かりやすいかもしれません。

例えば、タブレットを渡され、タブレットに表示される指示にしたがって作業をしてください。これがあたなの仕事です。といったようなシステムで成り立つ仕事です。

そんな仕事を楽な仕事だと言って喜ぶ人は多いと思います。

だって、授業は適当に受けておけば良いよ、期末試験はスマホ持ち込み可で検索し放題だよ、って言われたら大喜びするでしょ?そして、実際、授業は真面目にうけず、期末試験の際は、問題の答えを求めて検索しまくり、上位にヒットした内容を丸写しして、あー楽だったーって喜びません?

もしも、そりゃそうだ、と思った人は、上に書いた通り、そんな仕事を楽な仕事だと言って喜ぶ人ですよ。

なのに私が、「でもさ、それってAIに使われているんだよ」、とか、「既にAIに奪われた仕事だよ」、とか説明するもんで、人を馬鹿にするな!と憤慨する。

馬鹿になんかしていません。私が言いたいのは、大学で4年、大学院修士課程で2年という時間とお金を使い、身につけ実際に運用できるのが、AI検索と上位ヒット情報の丸写しって、どうなんですかね?という事です。

大学教育はインフレを起こしています。大学卒業とか大学院修士課程修了とか、どの大学とか、もうほとんど意味がなくなってきています。そこで、モチベーションを持ち続け、大学卒業後の約40年間をどうやって仕事に費やすのですか?

最近はよく学生達に、こんなことを語りかけています。

2023年8月19日 (土)

大学生の考える力の低下が問題視され、「考えさせる問題を入試で出題するように」とお達しが出て久しいものの、考える事が苦手な学生さんが一向に減らないのが現状です。

考える事も、説明することも不得手な学生さん

ある日、ある学生さんと卒業研究について議論をしていると、「考えたら負け」と強く念じてこれまで頑張ってきたのに、という発言が出てきました。

詳細はこうです。「考えたら負け」と暗記に専念して大学入試に取り組んで来たのに、大学に入学した途端、「自分の頭で考えるんだよ」と言われても、何をどうしたら良いか分からないというのです。実は私、「考えたら負け」の意味が分からず、どういう意味?と思わず質問しました。考える事が不得意な上に、自分の考えを説明するのも不得手なこの学生さんの言うことを理解するのは大変なのですが、じっくり話を聞いて、私が理解したのは以下の様なことでした。

「考えたら負け」とは?

例えば、物理の公式を勉強する際、公式は暗記するものであり、どうしてこのような公式が導かれたのかについて考えるのは、時間の無駄である、ということの様です。

そういえば、私の高校時代にこんなことがありました。

私は、物理を学ぶ事も応用することも大好きです。そんな私ですから、物理の法則は全て深く理解しようとします。ある日、ドップラー効果について、いつものように時間をかけて延々と理解する事(考える事)に時間を費やしていると、通りがかった同級生が「そんな事に時間をかけて馬鹿じゃない!公式は暗記すれば良いでしょ。考えるのは時間の無駄だ」と私に言うのです。あれから長い歳月が流れ、ようやっと同級生が言うことも、卒研生の言うことも理解出来た様な気がします。実はこの高校時代の話にはオチがあります。同級生からの「馬鹿じゃない」発言から数ヶ月後、大学入試模試があり、物理の問題としてドップラー効果の原理に関連した考えされる問題が出題されたのです。物理の教員の後日談によると、この問題に正解したのは私だけだったそうです。大学入試本番で出題された物理の問題も、難易度の高い問題で、噂ではほとんどの同級生が苦労したそうです。そんななか、「私は物理満点」と両親に報告し、無事、合格し今に至っています。

本当に時間の無駄だったのか?

物理の法則を深く考えることに時間をかけた私の高校時代ですが、本当に時間の無駄だったのでしょうか?私が、科学者として世界の第一線で活躍できているのは、考える事に時間を費やしたからだと自負しています。

しかし、学生達はこう話を続けます。

自分は科学者は目指していない。良い大学に入って、良い就職先に就職できれば、人生安泰。安泰な人生を手に入れる事が一番大事なんだ、と。

安泰って何なんでしょうね?安泰な人生については、また今度議論しますね。

人生は判断の連続

人生って選択とその判断の連続だと思います。子供のうちは、判断を他人(親を含む)に委ねることが多く、他人に委ねさえすれば、判断が間違っていたとしても、その責任を他人に押しつければ良いので、判断の重さを実感できないかもしれませんね。でもよく考えてみてください。物理の公式を暗記するか、それとも理解する事に時間を使うかの選択だって、判断ですよね?その判断の根拠が何であれ、暗記することに徹すると判断し選択したのは、その人自身です。

他人の判断に人生を委ねるのか?

他人の判断に全てを委ねた人生って安泰なんですかね?だったら、ああしなさい、こうしなさい、言うことを聞きなさい、と親や先生に言われても、反抗できませんよね。でも、多くの学生が、言いなりは嫌だと反抗する。だったら、自分で判断して選択する人生を歩んだらどうですか?

自分で責任を負いたくない事は他人に判断させ、都合の良いときだけ自分の勝手だと反抗する。そんなの、身勝手にもほどがありませんか?

判断するには考える力が必要

今の大学生はデジタルネイティブ世代だと言われています。(ちなみに、世代は違いますが私もデジタルネイティブです。特殊ではありますが、物心ついた時には、コンピュータもネットも身近にあり、それらをおもちゃにして育ちましたから。)私の目には、デジタルネイティブ世代は、ネット上にある情報に頼りきった世代だとうつっています。大学入試で暗記したことは、ただ暗記したことなので、すっかり忘れてしまい、考える力が無いので、学んだ事を応用して考えることもできず、レポート課題の答えをネットで探し、鵜呑みにして丸写しする、そんな世代ですね。だから、ネット上に書かれていることの正否も判断できない。判断しようとしないのかな?それとも、判断できないのか?

判断するには考える力が必要なんですよね。だから、結局、身につけるべき力は、考える力が一番重要なんです。だったら、暗記することに時間を費やすより、考える事に時間を費やした方が良いのだと私は思います。

だって、高校時代を暗記することばらかに時間を費やした結果、考える力も養えず、暗記したことはすっかりわすれてしまう訳ですから、とても無駄な時間だったと言えません?「でも良い大学に入れたじゃないか!無駄じゃない!」と反論します?でもさ、その良い大学も学部や学科も、考えずに決めたでしょ?適性が無い学部学科に進んでも、大変な思いをするのはその人で、大変な思いをした割には単に卒業しただけになり、そんな4年間って無駄なような気がしません?いえいえ、良い会社に入れたんだから良いんですって?うーん、延々と堂々巡りのように私には思えます。だって、良い会社って誰の判断ですか?他人様の判断であって、自分の人生が歩める会社かどうかは判断してないでしょ?

自分で考え判断し、そして自分の人生を歩む

ある学生さんが国際会議で発表するチャンスを得たときの事です。こんなご時世ですし、早めに保護者から海外渡航の許可を得ておいてくださいね、とこの学生さんには伝えていました。しかし、この学生さん、まさか自分の親が海外渡航に反対するなんて思いもしなかったのでしょうね、それまで「頑張ります」とやる気満々だったのに、渡航するか否かの最終判断をする時期になって突如、「親が反対するので行かない」と言い出したのです。それ以降、この学生さん、何もかも投げやりで。。。

親が反対する理由はコロナ感染が怖い

うーん、「海外渡航はコロナ感染が怖いからダメだ」なんて、このご時世にネット上に書いて良いのだろうか?と正直判断に迷うくらい、「不適切な発言」ですよね。

何をもってこんな判断したのか?そして、20代半ばにもなって、自分では判断せず、他人の判断をうのみにしてただ従うだけってね。

きっと、この学生さん自身も、違和感を感じたから、やる気を喪失したのではないかと思うわけです。

可愛い子には旅をさせよ

判断を間違っていいじゃないですか。旅先で失敗しても良いじゃないですか。その結果、考える力と判断力がつけば。だから昔から、可愛い子には旅をさせよ、というんでしょ?人生長いんです。その人生を自分で考え判断し、自分自身の人生として歩むことこそが一番重要なことなのではないかと。

2022年12月27日 (火)

皆様、「ジェルネイル」をご存知ですか?

また、ネイルアートの一種だとご存知の方も、その原理をご存知ですか?

工学部電気電子工学科の電磁波研究室のホームページで「ジェルネイル」?と思ってらっしゃる方もいらっしゃると思いますが、そう短慮に判断せず読んでくださればと思います。

最近は日本でも爪のお手入れを欠かさない人が男女ともに多くなってきました。ネイルサロンへ行くと、男性のお客様が爪をピカピカに磨いてもらっている姿もよく見かけるようになりました。

私もネイルサロンでは主にネイルケアといって、お手入れを重視する施術を受ける事が多いのですが、たまにはカラーリングやネイルアートを楽しみたいと思います。

しかし、マニキュアはすぐに剥がれてしまいます。特に、実験を通じて手先を使った細かな作業をしたり、重たい測定機器を設置したりすることが多い私の場合、マニキュアはあっという間に無残に剥がれ落ちます。そんなマニキュアに代わり約2010年頃からでしょうか、「ジェルネイル」というものが流行だし、よくお勧めされるようになりました。今では多くの方が毎月のようにジェルネイルを楽しんでらっしゃる様子。私も体験したいなぁ~と思っていました。

新しものが大好きで、良い物は誰よりも早く体験したい私が、珍しく手を出さなかった「ジェルネイル」。理由は簡単です。ジェルネイルという名前からは、その原理が全く分からないからです。ネット検索をかけても、原理の詳細を説明をしているページはなかなか見つからない。単に、マニキュアより長持ち!早く乾くので施術時間が早い!綺麗!って書いてあるばかり。。。

そんな私にようやっと「ジェルネイル」の謎が分かる出来事が訪れました。

ジェルネイルとは、光硬化性樹脂だったのです!

主に、紫外線や可視光が使われているようです。(ここで電磁波との関連性が出てきましたね!)

この光硬化性樹脂、工業分野では大活躍。例えば速乾性の接着剤や3Dプリンターの造形樹脂としても使われています。最近は、歯科治療でも歯の修復や補強にも頻繁に使われています。

「ジェルネイル」なんて呼ばずに、「光硬化性樹脂」だって言ってくれれば、すぐに理解できるのに~と思った私。まぁ、ちまたでは、そんな名称で売り出しても売れないかもしれませんね、笑。

納得すると、早速興味がわき、年末年始だし、体験してみることにしました。

実際、爪に与える影響は気になるのですが、その速乾性といい、その発色といい、剥がれにくさといい、マニキュアとは全く違う、全くの別物です!(そもそも物性が違うので別物なのですが。。。)

爪も強化されているせいで、いつものように重たい測定器を設置したり、細かな作業をしても、爪が割れない。

これで、爪への化学的影響と、取り除くときの手間が無ければ最高なんだけどなぁ~とすぐに思いました。だって、現存の光硬化性樹脂は一旦硬化すると、液体には戻らない不可逆な硬化過程ですから、剥離は困難なのは常識。ネットでネイルサロンにおける硬化した樹脂の剥離方法を調べても使用する詳しい薬剤もその原理も書いてない。。。

いやぁ、ジェルネイルに限らず、何においても、使用する薬剤とその原理について自分なりに理解した上で利用したいですね。

いろいろな事を勉強し、それを自分なりに理解する能力に使う事ができれば、トラブルを避けることができたり、トラブルを解決したりできますよ!

私の場合、ジェルネイル一つにしても、素晴らしい技術に触れる楽しい機会です!

2022年12月26日 (月)

M1(大学院修士課程1年生)の中間発表が無事修了しました。

修士課程学生に対する中間発表(M1対象)は実施する大学としない大学があります。最近は、多くの大学で実施しているようです。その理由は、研究室活動を実質化するためです。

工学部をはじめとする多くの理系の学部学科では、大学院の学生は研究室に所属し、所属した研究室が進めている研究活動に参加しながら高度な専門的知識と経験を積みます。工学部の人々は「研究室活動」と呼びます。ちまたではゼミと呼ぶ人のいますが、日本の工学部ではゼミとは呼びません。

大学院生の主な活動は、この研究室活動です。研究室活動を通じて得られた成果を論文にし、この論文内容が各課程(※1)の合格基準に達していなけえば、課程を修了(卒業)することができません。

一昔前(2000年頃)までは、この常識(大学院生というのものは各課程の論文(修士論文もしくは博士論文)を執筆するのが主な仕事であり、論文を書くためには、自主性をもった研究活動を行い、独自性のあるテーマで、学術的に新規的かつ重要な研究内容について、学術誌掲載レベルの論文執筆技術を持たなければならない)が分かっている人が大学院に進学する事が多かったので、毎日研究室へ通い、日々研究室活動に勤しむことは当たり前でした。

しかし、2010年頃から諸般の理由で、この常識が大学院生にとって当たり前ではなくなり、研究室活動を授業の一環として時間割に組み入れたり、成績評価を実質化したりする必要性が高まりました。中間発表も、一般的に2年間でプログラムされている修士課程の1年目の成績評価のために、多くの大学で実施されています。

この諸般の事情の中には、学生さんの意識(保護者の意識も含まれる)への働きかけが大きいと思います。時間割に組み入れられていないと、「何故、研究室へ毎日通い勉強する必要があるのか?」と思う学生が増えてきたからです。このような学生は、大学学部1年生の頃と同様に、授業だけ出席し、それ以外の時間は全てアルバイトや趣味などのプライベートな時間として過ごしてしまい、2年経過した頃に「修士論文を提出してください。提出しないと課程を修了(卒業)できませんよ」と言われ、そこで初めて、前述したようなプライベート時間ばかりの大学院生生活を送っていると、課程が修了できないことに気付くのです。とはいえ、授業レポートと同様に一晩徹夜すれば書けると気楽に考えている学生さんもいますが、一夜漬けのレポートで合格できるほど甘い審査ではありません。

前置きが長くなりましたが、中間発表は、学生さんが計画的に2年間の研究活動を進める為にあるのです。計画的に進んでいるか?1年目の経過として2年目に卒業できる見込みが立つか?などを実質的に評価することで、前述したように、2年もの時間をほぼプライベートに過ごし、終盤になって「あれ」ということにならないようにするのです。

松永研の3名のM1ですが、それぞれに1年間の努力が結果に表れた発表となりました。今日からが修士課程の折り返しです。丁度1年後には修士論文の提出と発表があります。そこへ向かって頑張ってください!

※1:ここで各課程とは、修士課程(博士前期課程)と博士後期課程の事を指します。大学院へ進学する多くの学生さんは、修士課程の修了および修士号の学位取得をもって企業等に就職しますので、一般的に大学院卒業と言えば、修士課程修了を指しています。大学の先生など、より高度な知識を必要とする職業に就くには、博士後期課程を修了し博士号の学位を取得する必要があります。ちまたでは、あそこのお子さんMBAを持ってらっしゃるんですって、とか、私はMBAを持っている、と誇らしげにおっしゃる方をみかけますが、このMBAとはMaster of Business Administration の略で、経済学の修士号のことを指します。ですから、この学位をお持ちの方々は、経済学に関する大学院の修士課程を修了されたということになります。

2022年11月13日 (日)

皆様、お久しぶりです。

長年、私のブログを楽しみにしてくださっていた方々には、多くのつぶやきを整理し、更新もやめてしまったことをお詫びします。個人的な事情が大きく影響しました。詳細は書くことができませんが、多くの困難を乗り越える過程で同時に多くを学んだ期間でした。ようやっとブログを更新する心境になりましたので、今後は定期的に更新していきたいと思います。お付き合いくださいますと幸いです。

実は、このつぶやきは、更新が滞っていた理由の一部が分かる内容になっています。

ちなみに、このHPは松永自身が作成しています。(長年松永を知り、そしてこのHPの更新を楽しみにしている方には今更ですね。)研究室ガイドなど一部の学生に関わる記事は、学生に原稿作成依頼をし、私が確認した上で掲載しています。

敢えてこれを説明するのは、松永や松永研について関心をもってくださり、ネット検索をなさる方の一部には、「HPの更新が長年滞っている理由」に着目される方もいらっしゃるからです。

ホームページを作成する技術や環境に問題はありません。単に、私のマンパワーの問題です。

さて、久々の更新内容です!

4月1日発行の静岡大学工学部メルマガ34号に私の着任挨拶文が掲載されたことは既に報告しました。実はこの原稿作成の際、松永のチャレンジ精神がうずいちゃいました、笑。案として提出した原稿には、つづきがあったのです。メルマガ編集会議において「大学にとってネガティブな印象を与えかねない」という理由で差し戻され、潔く全削除をした私でした。

とはいえ、全くネガティブな内容では無いのです。むしろ、誰もが一度は悩んだことがあり、そして無くそうと努力しているにも関わらずなかなか無くならない「ハラスメント」という問題に向き合い、世の中を前進させいようという意気込みが感じられるものです。よかったらお読みください。

では、着任挨拶文の続きです。

大学教員を長く続けていますと、研究や教育以外の事にも多く携わってきました。特に、ハラスメント相談員及びハラスメント防止対策委員(静岡大学の場合の名称)に相当する委員は、これまでの教員人生において最も長く携わってきました。最初にこの役目へと導いた背景は、(1)工学部における女性教員の割合が極めて低いこと、そして、(2)ハラスメントに関わる事は「女性の方がいいだろう」という「固定観念」でした。どちらも残念な背景です。とはいえ、長い教員生活を通じて、客観的にハラスメントに関わることも、私自身がハラスメントの被害者になる事も多くあります。とても残念な事ですが、これが実情です。

良い機会ですので、ハラスメントの話を致します。前職において学生間で発生したハラスメント事案に対応していた時、一緒に対応に奔走したある教員が私に質問しました。

「なぜハラスメントは発生してしまうのでしょうか?何が問題なのでしょうか?」

私はこうこたえました。

「他人は自分とは違う、それでいて尊い、という考えが至らないのでしょうね」

 

多様性を認める時代となり、「みんな違ってみんな良い」という言葉も使われるようになりましたので、私の言わんとしていることを理解してくださる方々もいらっしゃると思います。哲学者や心理学者の多くが語っているように、人生の問題は人間関係に起因します。つまり、人間関係を克服していくことが人生そのものといえるのかもしれません。人々は様々な手段で人間関係を克服しようとします。その際に、自分の考えを他人へ押しつけたり、自分とは考えの違う他人を否定したり傷つけたり、そして、自分の考えに従わせようとしたりすれば、それはハラスメントになってしまうのです。「他人は自分と違っていて、そして尊い」という意識をもって万人が万人と接する事ができればハラスメントは起こらないと思います、というのが私の言葉の意図するところでした。

授業アンケートにおいて「先生が期待しているほど理解はできなかった」と答える学生さんがいます。学生さん達と話していると「先生や親の期待に応えること」に重きをおいた人生を歩んでいる人が多いように思えます。そんなとき私は決まってこういいます。

「自分の人生です、どうか自分の考えで歩んでください。そして、大学は、自分の力で考え生き抜く勉強をするところなのです。一緒に悩み考え歩みましょう」

物心ついてから今日まで「誰かの期待に応える」ことが生きる目的であり、「誰かの期待に応えて褒められる」ことが生きる喜びであった学生さんにとって私のこの言葉はあまりに斬新なのか、「自分のこれまでの人生を否定された」と感じる学生さんが時折いるようです。そんな時は

「あなたの人生を否定しているのではありません、あなたを尊重し、あなたのこれからの人生、つまり未来をあなた自身の手で創っていってください、と言っているのです。私はそのお手伝いを喜んでします。」

と時間をかけて説明していきます。そんな学生さんも卒業する頃に私の居室へやってきて、目を輝かせながら「私の人生、私の好きに生きていいのですね。私の人生は、誰かに褒められたりしなくても価値のある尊いものなのですね。先生にもっと早く会いたかった。このことにもっと早く気づきたかった」と言ってくれます。

 私自身、この10年、ハラスメントの被害者となり、ハラスメントと闘う日々が続いています。このことが理由で、私の研究室のホームページは近年ほとんど更新していません。しかし、私もハラスメントに屈せず、尊重されるべき一人の人間として「生きる勇気」を持つときなのかもしれません。これからはホームページも更新していきたいと思っています。