2024年1月20日 (土)

コスパが良いのはどっち?知識と応用力vs答えの記憶

視聴者数の多い動画や、流行している小説やアニメ(漫画)を観ながら、流行る理由について考察することがある。何に関心が高まり、そして何が影響を及ぼしやすいのかを知ることは、科学においても重要なことだ。

「薬屋のひとりごと」という小説が、漫画やアニメ化され、人気を博している。アニメの動画配信で目にし、主人公がつぶやく言葉に共感を覚えることがある。「ミステリと言う勿れ」という漫画もドラマ化に留まらず、映画化までされた。後者に至っては、主人公の語りが中心だ。それも、作中でも主人公の語りを「面倒くさい」と他の登場人物が揶揄するほど、語る語る。ここ数年、主人公がくどい事をここまで語る物語が流行る理由は何だろうと思った。

私も語る。それもくどくて長い。面倒くさがる人も多いだろうが、このブログをよく読んでくださる方は、思わず笑いながら、うなづいてくれたであろう。

この二つの物語は、共にミステリの要素があるため、主人公が謎解きを語ったとしても違和感はないし、ミステリとはそういうものであるという固定観念が読者にもあるので受け入れやすいというのは理由のひとつであろう。とはいえ、主人公達が紡ぐ言葉の中には、単にミステリを解き明かすだけではない何かを感じるのである。

「薬屋のひとりごと」において主人公がつぶやいた「世の中、不思議な事はほとんどない。不思議と言うならそれは知らないだけだ」という言葉が耳に残る。これは、主人公と会話していた登場人物が、経験した事の無い事象を目にし「不思議だ」と表した場面でのこと。

同様に、主人公の説明に納得した登場人物が、「無知は罪ですね」とつぶやく場面がある。これは、日本で言えば江戸時代頃に流行した白粉(おしろい)の鉛中毒について主人公が解説する場面で出てくる。要するに、そのころ、白さが美人の基準となっていた文化圏では、白さが際立つと、もてはやされた白粉には鉛が入っており、鉛中毒で身体を壊したり亡くなる人が多く、授乳中の場合は乳飲み子も鉛中毒になった。「白粉の使用は禁止」となってもなお、白さを求めて使用をつづけ、子供を亡くし、自らも死の危機に瀕した女性について主人公が語るのである。


YouTube: 『薬屋のひとりごと』ミニアニメ「猫猫のひとりごと」第1話【毎週土曜24:55~日本テレビ系にて全国放送!】

いずれにしろ、この小説の作者が、「無知であること」に対して強いメッセージを含めているように思える。

ミステリと言う勿れの主人公の言葉で最も印象深いのは、「真実と事実は違う」ということ。刑事や探偵ドラマなどで「真実は常に一つ!」というフレーズが出てくるが、真実は、その事象についての個人の認識によって影響を受けるものであり、その結果、人の数だけ真実はある。しかし事実は違うという説明が続く。科学者や技術者にとっては、こころに留めるべき大事な事だと私は思う。


YouTube: 【公式】月9『ミステリと言う勿れ』第1話ダイジェスト! 第2話は 1/17(月)よる9時~

ゆとり教育の弊害を、考える入試問題で挽回しようと教育界は一生懸命だ。「ゆとり」というネーミングは、もしかすると「じっくり考える”ゆとり”」をもたらす教育環境を目指そうとしたことに由来しているのかもしれない(調べてはいない。私がそう思うだけ)。しかし、結果的に、記憶力競争が激化し、考える力が低下した。教育現場にいると、「説明はいらん。答えだけ教えろ」という学生が増加していることを嘆く教員は多い。最近はそれを、「コスパ」と呼ぶのだそうだ。この「コスパ理論」の信者(正しいと信じて疑いもしない人々)は、「考える時間は無駄。記憶して大学に合格して卒業し、親が納得する(皆がうらやむ)会社に入社するのが最も効率的」なのだそうだ。はっきり言うが、いろいろと間違っている。(本ブログの読者にはいないだろうが、この「間違い」という認識は、世代や時代、そして、性別などに影響をうけるものではない)

白粉の話を例にとると、「白粉には鉛がはいっることがある」、また「鉛は身体に毒である」という知識を持たず、単に「白粉は使用禁止」と記憶したとしよう。結果、「美しさ」というパフォーマンスを一番に考える者は「鉛入りの白粉を使い続け(コスパが良いと考える)」、その結果「死に至る」ことになる。科学者の視点で言えば、白粉の使用禁止の理由が分からないでは、身体に良い白粉をつくることにはつながらない。そして、同じように発色の良い鉛入り顔料が使われている絵付け陶磁器の安全性に配慮する事もできない。「結果(答え)を覚えることは発展性がなくコスパが悪い(多くの答えを覚える必要があり、答えが分かっていないものには使えない)」。知識とその応用力がもっともコスパが良い。

これらの物語の作者も、そして、それを受け入れている読者も、はっきりと意識しているかどうかは分からないが、知識への好奇心やそれを応用した洞察力の魅力を感じているのであろう。

「安心安全」という言葉が政治的に流行った時があった。今のSDGsやサスティナビリティと同じような「はやり方」だ。総務省から機関誌にエッセイを書いて欲しいと依頼があったので、この「安心安全」をテーマにして書いた。「安心していると安全は作れない」ということをメインテーマにして。私の主張は、安全を作る努力の上に安心は成り立つのであって、安心していても安全は作れないというものであった。つまり、結果=安心ばかり求めていても、未来の平和=安全は望めない。未来の平和の為には何が必要かを考える(知識を持ち、応用力を培う)ことが、結果=安心につながるのである。

真実と事実の違いがそうであるように、人生をどうとらえ、そしてどう生きていくかは、ひとそれぞれである。知識をいかして生きていこうと、知識を持たずに(勉強に費やす時間を省き、楽をしていると思い込んで)生きていこうと、その人の勝手である。しかし、知識を持たずに生きていこうとする人の中には、自分の知識不足が招いたトラブルを、他人の責任にする人が多いことは事実である(前述したとおり、安全は自分が努力してつくるものではなく、人がもたらしてくれるもの(人頼み)と考えているから)。自分の人生を他人頼みにすることほど、不安なことはないと思う。自分の人生を他人に委ねるのではなく、自分でつくるには、知識と応用力が必要だ。

私は、その知識と応用力を教えているのである。