2023年12月31日 (日)

2023年もあと僅かとなりました。皆様、どのような1年でしたでしょうか?

私はというと、年始にたまたまTVで目にした、日本で有名な占い師による運勢ランキングにおいて、自分が上位に位置していることに喜び、良い年になる事に期待が膨らんだものの、終わってみると、そういうことだったのね、と運勢というものの考え方がより深まった1年となりました。

例えでお話しすると、大きな試練に直面したものの、試練へ立ち向かう気力や体力、そして、試練を解決する方策にも恵まれ、運も味方したかのように試練を乗り越えることができた、といったような事です。試練というものには直面したくないと思う人も多いと思います。しかし、試練は乗り越えることができれば、大きな成長が得られます。そういう意味では、運気が良い時に大きな試練に直面するのは、良い事なのかもしれないと思いました。2024年は、成長した私が皆様のお役に立つことができるよう、より一層精進していきたいと思っております。

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運が良いとか、良い年とかいった言葉はとても抽象的だな~と思うのです。苦難や試練が無ければ良い年なのか?運が良いのか?と思うくらい、人は苦難も試練も嫌がります。多くの人が、苦難や試練に遭遇しないように生きる事に一生懸命のようにも思えます。中には、何事も起こりませんようにと願うあまり、チャンスさえも逃してしまう人もいます。そうなのです、何も起こらないとは、喜びに満ちあふれた出来事も起こらないのです。だったら、苦難も試練も誰の人生にも必ず訪れるものであると考えてはいかがでしょうか。その苦難も試練も乗り越えられれば良いことですし、その向こう側には成長という喜ばしい出来事も起こるでしょう。そして成長すれば、苦難も乗り越えやすいものとなるでしょう。そう考えると、大いなる成長ができた年こそが、良い年であり、運が良かったと言えるのかもしれませんね。

2024年も松永は成長をしつづけます!

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浜松駅前にあるアクトタワー(オークラアクトシティホテル浜松)の屋上にあるヘリポートが、冬仕様の照明になっていましたので撮影してみました。アクト通りと呼ばれる並木通りから撮影したので、こんな写真になりました。最近では、タワーマンションが立ち並ぶ浜松駅前ですが、45階建てのこの高層ビルはひときわ目を引きます。なんとこのビル、約30年前の1994年10月に開業したそうなのです。1991年建設開始、1994年開業、そうバブルが崩壊真っ只中の建設と開業です。あ~これって、バブルの遺物なのねぇ~と、思う方も多いと思います。「アクトシティ浜松」というバブル期の大規模構想のもと建設された建造物のひとつなのです。他には、国際会議場コングレスセンター、大中のコンサートホール、大規模展示場、複合商業施設、そして、楽器博物館があります。建設中も、また開業後の30年にも様々な苦難があったようです。というわけで、浜松市にとってはランドマークタワーだそうですが、私の目には、なんとも渋ーくうつります。ちなみに、TVドラマ「古畑任三郎」の第三シリーズ(1999年)に外観だけ登場します。ネタバレになってしまいますが、客室の窓から漏れる光を使った「窓文字」を描くホテルとしての登場だったようです。

参考:オークラアクトシティホテル浜松Facebook

2023年最後につぶやきたいこと、それは、「ありがた迷惑なお節介」についてです。今年は何度も本話題に関連するつぶやきを書いてきました。人との関わりにおいて、最も注意しなければならないこと、それは、「ありがた迷惑なお節介をしないこと」だとつくづく思いました。

よく目にする具体的な例です。

夫が妻に相談もせず、この選択が妻にとって一番だと勝手に決めつけて、大きな決断(例えば家を買うなど)をしてしまう。妻が夫に対し、「この決定は自分にとっては色々と問題がある」と言うと、夫は、「君のために一生懸命考えて下した決断なのに、それを君はむげにするのか!」と怒り狂う。妻は、「決断をする前に、私の意見を聞く機会、つまり話し合いが必要だったのでは?」というと、夫は、「いいから言うことを聞け」と言い出す。

これは夫と妻が入れ替わっても、そして、夫と妻ではなく、同僚であったり、上司と部下であったり、そして、友人同士であったりしても、同じ事です。

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要は、他者が関わる問題であるにも関わらず、その他者の意見を聞く機会(話し合い)を設けず、勝手な思い込みだけで物事を決定したり判断したりすることが、そもそものトラブルの原因である、ということです。先の例で言えば、夫は「妻が夫の決断に難癖をつけた。困った妻だ」と、妻が反論したことがトラブルの原因だ、と主張する場合が多いです。この様な考え方は間違っています。妻は、自分も関わる事柄について何の相談もしないことを問題視しているだけで、トラブルの原因は作ってはいません。更に、この例では、夫が、「君のために考えてしたことだ」と主張したり、最後には「言うことを聞け」と言い出したり、傍若無人な態度をとっています。これはまさにハラスメントです。もう一度言います、そもそも、他者も関わる問題であるにも関わらず、全く相談もせず、勝手な思い込みで事を進めたり決定した事が問題なのです。それに対し、自分の意見も聞いて欲しいという行為は、何も間違っておらず、むしろ、積極的に主張すべきことです。そして、勝手な判断をした者が、勝手な判断をしないで欲しいと言った者に対し、「トラブルを起こす気か」と言ったり、「あなたのためだ」と主張したり、ましてや「言うことを聞け」と相手を封じ込めようとしたりすれば、それはハラスメントになる、ということを覚えておくべきだと思います。

長く生きていると、人と関わる事が嫌になることも多いです。その結果、人と関わる事を拒絶してしまう人も多くいます。しかし、社会というのは人によって構成されており、生きるということは、人と関わっていくということなのかもしれません。そう考えれば、少しでも円滑なコミュニケーションができればと思うのは当たり前です。しかし、これまでは、円滑な人間関係のために、勝手な判断で話し合いもせず事を片付けようとしたり、その勝手な判断に対し反論をすることをタブー視したりする傾向が強かったように思います。しかし、そもそも、他者が関わることに勝手な判断を下し、それを押しつけようとしたことが問題なのです。

面倒くさいと思う人も多いでしょう。しかし、前にも申した通り、「手を抜いたら手がかかる」のです。ほんの少しだけ面倒くさがらず、関わる他者の意見にも耳を傾けてみてください。そうすれば、もっと人との関わりが楽しくなるかもしれませんよ。

2023年12月21日~22日にかけて、電子情報通信学会マイクロ波研究会及びIEEE MTT-S/AP-S Nagoya Chapter Midland Student Express Autumn(中部地区学生発表会)を、静岡大学工学部(浜松キャンパス)において開催しました。

マイクロ波研究会は、私が大学教員となって以来、専門委員や現地世話人として何度も開催してきましたが、静岡大学へ移ってからは初めての開催となりました。Midland Student Expressは、中部地区の学生さんが発表する場として長く親しまれてきた行事のようで、ここ数年は主催者として活動をしています。12月の研究会は、是非静岡大学で開催したいとマイクロ波研究会関係者からお声かけいただき、私の提案でマイクロ波研究会とMidland Student Expressを同時開催し、それぞれの参加者が交流出来る場を設けることにいたしました。マイクロ波研究会の関係者の方々には、同時開催へのご協力に心から感謝申し上げます。

Img_18981 マイクロ波研究会における松永研の学生さんの発表

松永研からは、2023年4月に開催されたMidland Student Express SpringでAP-S Award(最優秀賞)を受賞した大学院の学生さんがマイクロ波研究会で発表しました。発表タイトルは「高域放射特性を改善する2段テーパースロットアンテナ」です。内容ですが、高性能イメージング技術には欠かせない電磁波プローブアンテナの開発に関する研究です。電磁波を用いたイメージング技術の高性能化が期待されています。応用分野としてはマイクロ波マンモグラフィーのような生体イメージングや、コンクリート建造物の内部劣化の非破壊検査などがあります。これらのイメージング技術の高性能化には、様々な技術をそれぞれに改良し、そして組み合わせる必要があります。その中でも、イメージング用電波の送受信をするアンテナの性能は、ダイレクトに解像度に影響します。本発表では、イメージング技術に用いられるアンテナの放射特性を改善する新たな手法について提案しました。詳細は、マイクロ波研究会のホームページをご覧ください。

多くの方のご参加ならびに、発表内容に対する活発な議論ができましたこと、心より感謝申し上げます。私が大学院修士課程のころから発表をしたり、運営に関わったりと長年お世話になっておりマイクロ波研究会が、これからも日本の科学技術の礎となりますよう、私も微力ながらお手伝いしていきたいと考えております。

2023年12月11日 (月)

早いもので今年も師走となりました。毎年このブログに掲載することが恒例となりました冬のイルミネーションの写真です。このショッピングモールは毎年訪れるのですが、不景気を反映してか、年々簡素化しているように見えるのは気のせいでしょうか?もしかすると、これは簡素化では無く、温暖化を表しているのか?このように人間はいろいろと事情が分からないものに対し想像を巡らせるものです。

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最近「イチケイのカラス」という日本映画を見ました。えん罪を防ぐ為に、誰かに忖度したり、一方的な決めつけで判断したりすることなく、それこそ面倒くさがらず手を抜かずに捜査を行い、それに基づいて判断をすることの大切さを主題としている、裁判所を舞台とした漫画を原作のリーガルサスペンスだと思います。私自身は、そもそも、主観に囚われず、柔軟に物事を見通し、公平に判断をくだすことを心がけているため、その大切さを訴える漫画やドラマが世間で受け入られるようになったことに対してはうれしさを覚えます。このドラマの掲げるテーマの中でなるほどと思ったのは、「罪を犯した人にも罪を償う権利がある」というものでした。

物語で描かれているのは、誰かが罪を犯したとき、その罪を他の誰かが勝手に「かばったり」、勝手に「かぶったり」したシーンでこの「罪を犯した人にも罪を償う権利がある」ということを認識させるシーンが出てきます。このテーマには、他人の問題に他人が勝手な判断で踏み込まないこと、そして、踏み込んだことに対しまるで良い事をしてやったかのような優越感を覚えないこと、というのが背景にあるように私には思えました。

私は学生達に、勝手な思い込みをしないこと。そして、勝手な思い込みに基づく言動を他人に押しつけないこと、をいつも教えています。わかりやすい例でこれを説明しましょう。

就職活動をしていたある学生さんとの会話です。

先生:就職活動の状況はどうですか?

学生:ほっといてください。先生には関係無いでしょ?

先生:そうですね、自分なりに進めているのであれば良いですね。頑張ってください。何か相談事があれば遠慮無く言ってくださいね。

学生:自分の就職活動のやり方は特殊です。これを理解してくれる先生なんてこの世にはいないと思います。どうせ反対されたり、自分の意には反する意見をされたりするので、気にしないでください。

先生:それって、「先生というのは学生さんの意見を理解してくれないに決まっている」という勝手な思い込みに基づいていますよね。しかも、実際に目の前にいる先生は、まだ何も言葉を発していないのに、「どうせ反対したり意に反する言葉をなげかけるはずだ」と決めつけて、実際には発していない言葉をさも発したかのように想定して先生を批判したり中傷していませんか?

学生:。。。

先生:先生がどんな反応をするか試してみませんか?もしも、その結果、あなたがいうような事になれば、批判すればよいじゃないですか?

そうなんです。イチケイのカラスで出てくる「罪を犯した人をかばう」行為も、学生が「どうせ先生なんて自分を否定するに決まってる」という考えも、全て、勝手な思い込みで他人を判断しているのです。しかも前者は、「かばうことが罪を犯した人の為になる」と自尊心を高め、本当に罪を犯した人の気持ちは考慮されていない。また、後者は、実際には何もしていない先生が、学生に対し何かをしたかのようなことになっています。先生が本当は何を思い何をするかは無視されています。

このように、「どうせこうだろう」と自分の勝手な思い込みで、本来は他者にある決定権を奪う行為に対し、もう一度見直したいものです。

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ある日、建設作業現場前を通った時、写真の様な標語が掲げられているのを目にした。おもわす、「そうだよな~」と写真を撮影した。撮影した写真をよく見ると、解説文が添えられていることに気付き、その詳細についてネット検索をした。詳細は末尾の参考に記載しているブログを読んで欲しい。

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実は、私は手を抜かない人だ。それも全てにおいて手を抜かないので、手を抜きたい人たちからは「あんたみたいな人がいるとプレッシャーだ」と怒られる事がある。手を抜く罪悪感を、手をぬかない人にぶつけるのはお門違いである。それだけに、「隙あれば手を抜こう」とする学生達を見ると残念な気持ちになる。

まさにそうなのだ。「手を抜いたら、手がかかる」のだ。常に手を抜かない生活をしているからこそ言えるのは、どんなに手を抜かない日々を送っていても、手がかかることは起こる。それだけに、手を抜いたらどんなことになるのだろう、と思う。手を抜けば、手を抜いた結果しか得られないことも痛いほど理解している。だから言えるのは、「手を抜く」という選択は、「手を抜いた結果しか得られない」とあきらめていることになることをしっかりと自分自身で受け止めるべきであるということである。

人はついつい「面倒くさい」ことを嫌がる。面倒だから手も抜きたくなる。そして、手を抜かずに仕事をしようとする人を「面倒くさい人」と呼び嫌悪感を向ける。まるで手を抜かずに仕事をしようとしている人が悪いかのように。これは前述した、私に「あんたをみてるとプレッシャーがかかる云々」と言いがかりを付けてくる人と同じだ。要は、手を抜きたいが、手を抜くことには罪悪感を持つ。だったら、他の人のせいにして「手を抜いていることに対する自分への罪悪感も、自分へ向けられるであろう嫌悪感も、他人へそらしてしまえ!」としているのだ。一度の手抜きが、罪を重ねる状況を作り上げる例であると言える。

以前、判断力や創造力の重要性を記したブログの最後に、判断力や創造力を子供達が培うために親たちにしたアドバイスを書いた。「面倒だと思いますが、子供達の好奇心に付き合ってあげてください」と。そうなのです、教育も研究も、面倒なことばかりで、手がかかる事ばかりです。だからこそ、手を抜けないのです。手を抜いて育てた子どもは、きっと、手がかかる子供になるのではないですか?また、手がかからないことを自慢していませんか?(手がかかっていないように作為的になされているだけです。)

目の前の一瞬の面倒くささを回避するための手抜きが、後々、どうにも解決がつかないほど手がかかる事を招いていませんか?

「手を抜いたら、手がかかる」そう心にとめて人生をおくりたいものです。

※参考

(株)森長工務店、社長ブログ「手を抜いたら手がかかる」

https://www.morinaga-net.co.jp/blog/president/post-1937