2024年4月 9日 (火)

前回から少し間が空いてしまいました。「どうしたのかな?」と思ったかたも多いと思います。最近数ヶ月は何度も「いつもブログを読んでいます」という声かけも頂戴しました。

  • ホームページがあるかどうか
  • ホームページの見栄えがよいか
  • 内容が充実しているか
  • 最新の情報に更新しているか

によって、企業イメージが決まることが常識になり、大学の研究室も同様という見方が多くなったこともありますので、できるだけコンスタントに書いていきたいと思います。特に、新学部4年生(B4)の卒研室選びの時期ですかり、研究内容も充実していきます。

今日のお話は、学生さんの指導の際に使ったたとえ話「研究は100kgのバーベルを挙げる努力と同じこと」です。指導をしていて、ふと頭に浮かんだたとえ話だったのですが、理解が得られたので、ご紹介します。

大学院修士課程の新1年生は、修士課程2年間の目標と計画を立て大学に提出する必要があります。すると、「先輩が書いた計画書を若干変更するだけ」や、「すぐに終わる誰でもできそうな内容(既に取り組み結果が出ている内容など)」を提出する学生が多くいます。その理由の多くは、「自分にできるか不安(大変な努力が必要になったらどうしよう。できなかったらどうしよう。)」があるからのようです。書き直しを指示すると、どうすれば良いかわからないから書けない。計画が立たないから勉強もできない、と言い出します。

そこで、突然頭に浮かんだたとえ話が「100kgのバーベルを挙げるためには」でした。

「100kgのバーベルを挙げることが、修士号を取得するための条件だと仮定しましょう」。実際、知識も経験もほとんどない新1年生には、修士論文を書くための研究成果を得る事は、100kgのバーベルを挙げるくらい困難なことです。

100kgのバーベルを挙げる技術で社会へ出る=修士号を取得して就職する、と自分で決めた(進学を希望し入学試験を受験する)にもかかわらず、いざ、100kgのバーベルを挙げるためのトレーニング計画書を書きなさいと指示すると、「自分には100kgも挙げられるか不安。だから、目標を1kgに変更します」と言い出す。何か矛盾しませんか?1kgは、バーベルを触ったこともない私でも挙げられると思います。つまり、ジム(大学院)で専属トレーナー(大学教授)に指導を受けながらトレーニング(勉強)する必要はありません。1kgへ目標を変えるということは、修士号取得をあきらめるということに等しくなります。そう説明すると、今度は、「いろいろ調べましたが研究計画書を書くためのアイディが浮かびません。だから勉強が進みません。」と言い出す。これは、「100kgのバーベルを挙げるためのアイディアが浮かびません。だからトレーニングができません」と言っているのと同じでは?と説明しました。

そうですよね、目標が100kgであれ、50kgであれ、まずは基礎筋肉トレーニングが必要です。トレーニングを重ね、徐々に重量を挙げていくうちに、筋力も付き、要領もわかるようになり、そして初めて、100kgの壁に挑む準備と、そのための努力の仕方が見えてくるのです。自分には100kgが挙げられるか不安、とか、不安だからトレーニングもできない、という人の結果は決まっています。「100kgのバーベルをあげる=修士号を取得する」と一度決めた(進学を自ら希望した)のです。だったら、つべこべ言わず、地道なトレーニング(勉強)にまず取り組む事が何よりも大切です。そしてようやっと、何をすれば100kg挙げられるのかが少しずつ見えてくるのです。

ちなみに、後日調べたところ、100kgのバーベルが挙がるまでには1~2年のトレーニングが必要だそうです。多くの人が80kgまでは挙がっても、そこから100kgへ挙げるのには、更なる努力が必要になり難しいのだそうです。我ながら良い例だったなぁと感心した次第です。(日本の修士課程は2年間なので)

最後に、昨今は、「修士号を取得するのは100kgのバーベルを挙げるに等しい」なんて、そんな怖いことを言うな。学生がおびえて恐縮するだろう。余計に不安をあおる言動だ。などと主張する保護者や教員が多くなりました。そういう主張をする方々に、だったら人生の厳しさをどう教えるのですか?と問うと、「100kgのバーベルをあなた(先生)が代わりに挙げれば良い」とか、「怖くないよ、怖くなったら、(先生がつきっきりで)守ってあげるから」と言うべきだとおっしゃいます。何か違いませんか?野生動物が生まれた瞬間に歩き出すのは何故ですか?独り立ちの時期になると、放置したり野に放つのは何故ですか?

数十年後に、自分では何もできない大人ばかりになったとき、何が起こるのでしょうかね?その時に、そんな未来の大人を作った今の大人達はどう反論するのでしょうかね。私はもう何度も聞いています。「その頃には自分たちは生きていないから関係無い」と彼らは言います。それこそ無責任で恐ろしい行為です。

約80年前まで、日本国憲法が施行される前の大日本帝国憲法の時代、婚姻した女性は法的無能力者として意思決定権を有しませんでした。このことに疑問を呈し、婚姻をせず、自分の力で生きていく選択をしようとする女性に対し、人々は、「そんな怖い選択絶対にやめろ。苦難しかない。婚姻によって男性に守られる人生こそ幸せであり、そうすべきだ」と諭したと言います。私には、「100kgのバーベルなんて怖い話」と言い立てる人々の認識は、80年前のこの認識と全く同じに思えます。

2024年1月20日 (土)

視聴者数の多い動画や、流行している小説やアニメ(漫画)を観ながら、流行る理由について考察することがある。何に関心が高まり、そして何が影響を及ぼしやすいのかを知ることは、科学においても重要なことだ。

「薬屋のひとりごと」という小説が、漫画やアニメ化され、人気を博している。アニメの動画配信で目にし、主人公がつぶやく言葉に共感を覚えることがある。「ミステリと言う勿れ」という漫画もドラマ化に留まらず、映画化までされた。後者に至っては、主人公の語りが中心だ。それも、作中でも主人公の語りを「面倒くさい」と他の登場人物が揶揄するほど、語る語る。ここ数年、主人公がくどい事をここまで語る物語が流行る理由は何だろうと思った。

私も語る。それもくどくて長い。面倒くさがる人も多いだろうが、このブログをよく読んでくださる方は、思わず笑いながら、うなづいてくれたであろう。

この二つの物語は、共にミステリの要素があるため、主人公が謎解きを語ったとしても違和感はないし、ミステリとはそういうものであるという固定観念が読者にもあるので受け入れやすいというのは理由のひとつであろう。とはいえ、主人公達が紡ぐ言葉の中には、単にミステリを解き明かすだけではない何かを感じるのである。

「薬屋のひとりごと」において主人公がつぶやいた「世の中、不思議な事はほとんどない。不思議と言うならそれは知らないだけだ」という言葉が耳に残る。これは、主人公と会話していた登場人物が、経験した事の無い事象を目にし「不思議だ」と表した場面でのこと。

同様に、主人公の説明に納得した登場人物が、「無知は罪ですね」とつぶやく場面がある。これは、日本で言えば江戸時代頃に流行した白粉(おしろい)の鉛中毒について主人公が解説する場面で出てくる。要するに、そのころ、白さが美人の基準となっていた文化圏では、白さが際立つと、もてはやされた白粉には鉛が入っており、鉛中毒で身体を壊したり亡くなる人が多く、授乳中の場合は乳飲み子も鉛中毒になった。「白粉の使用は禁止」となってもなお、白さを求めて使用をつづけ、子供を亡くし、自らも死の危機に瀕した女性について主人公が語るのである。


YouTube: 『薬屋のひとりごと』ミニアニメ「猫猫のひとりごと」第1話【毎週土曜24:55~日本テレビ系にて全国放送!】

いずれにしろ、この小説の作者が、「無知であること」に対して強いメッセージを含めているように思える。

ミステリと言う勿れの主人公の言葉で最も印象深いのは、「真実と事実は違う」ということ。刑事や探偵ドラマなどで「真実は常に一つ!」というフレーズが出てくるが、真実は、その事象についての個人の認識によって影響を受けるものであり、その結果、人の数だけ真実はある。しかし事実は違うという説明が続く。科学者や技術者にとっては、こころに留めるべき大事な事だと私は思う。


YouTube: 【公式】月9『ミステリと言う勿れ』第1話ダイジェスト! 第2話は 1/17(月)よる9時~

ゆとり教育の弊害を、考える入試問題で挽回しようと教育界は一生懸命だ。「ゆとり」というネーミングは、もしかすると「じっくり考える”ゆとり”」をもたらす教育環境を目指そうとしたことに由来しているのかもしれない(調べてはいない。私がそう思うだけ)。しかし、結果的に、記憶力競争が激化し、考える力が低下した。教育現場にいると、「説明はいらん。答えだけ教えろ」という学生が増加していることを嘆く教員は多い。最近はそれを、「コスパ」と呼ぶのだそうだ。この「コスパ理論」の信者(正しいと信じて疑いもしない人々)は、「考える時間は無駄。記憶して大学に合格して卒業し、親が納得する(皆がうらやむ)会社に入社するのが最も効率的」なのだそうだ。はっきり言うが、いろいろと間違っている。(本ブログの読者にはいないだろうが、この「間違い」という認識は、世代や時代、そして、性別などに影響をうけるものではない)

白粉の話を例にとると、「白粉には鉛がはいっることがある」、また「鉛は身体に毒である」という知識を持たず、単に「白粉は使用禁止」と記憶したとしよう。結果、「美しさ」というパフォーマンスを一番に考える者は「鉛入りの白粉を使い続け(コスパが良いと考える)」、その結果「死に至る」ことになる。科学者の視点で言えば、白粉の使用禁止の理由が分からないでは、身体に良い白粉をつくることにはつながらない。そして、同じように発色の良い鉛入り顔料が使われている絵付け陶磁器の安全性に配慮する事もできない。「結果(答え)を覚えることは発展性がなくコスパが悪い(多くの答えを覚える必要があり、答えが分かっていないものには使えない)」。知識とその応用力がもっともコスパが良い。

これらの物語の作者も、そして、それを受け入れている読者も、はっきりと意識しているかどうかは分からないが、知識への好奇心やそれを応用した洞察力の魅力を感じているのであろう。

「安心安全」という言葉が政治的に流行った時があった。今のSDGsやサスティナビリティと同じような「はやり方」だ。総務省から機関誌にエッセイを書いて欲しいと依頼があったので、この「安心安全」をテーマにして書いた。「安心していると安全は作れない」ということをメインテーマにして。私の主張は、安全を作る努力の上に安心は成り立つのであって、安心していても安全は作れないというものであった。つまり、結果=安心ばかり求めていても、未来の平和=安全は望めない。未来の平和の為には何が必要かを考える(知識を持ち、応用力を培う)ことが、結果=安心につながるのである。

真実と事実の違いがそうであるように、人生をどうとらえ、そしてどう生きていくかは、ひとそれぞれである。知識をいかして生きていこうと、知識を持たずに(勉強に費やす時間を省き、楽をしていると思い込んで)生きていこうと、その人の勝手である。しかし、知識を持たずに生きていこうとする人の中には、自分の知識不足が招いたトラブルを、他人の責任にする人が多いことは事実である(前述したとおり、安全は自分が努力してつくるものではなく、人がもたらしてくれるもの(人頼み)と考えているから)。自分の人生を他人頼みにすることほど、不安なことはないと思う。自分の人生を他人に委ねるのではなく、自分でつくるには、知識と応用力が必要だ。

私は、その知識と応用力を教えているのである。

2024年1月19日 (金)

1月15日は、米国ではMartin Luther King Jr. Dayという祝日であることをご存知でしょうか?彼の誕生日である1月15日に由来しており、毎年第3月曜日に設定されています。今年は、第3月曜日が15日であったこともあり、彼自身の誕生日がMrtin Luther King Jr. Dayでした。

毎年この日になると、大学院時代の留学先であるUniversity of Wisconsin-Madisonの事を思い出します。留学するために初めてウィスコンシン州マディソンという街に到着したのがこの日でした。どうしてそれほどに印象深いのか?それは、経験した事の無い寒さだったからです。

どのくらい寒いのか?摂氏で氷点下20度くらいです。今年は?と思い、マディソンの天気を検索してみると、15日前後の数日間は、最低気温が-20度以下だったようです。福岡市で生まれ育ったため厚手のコートは必要ありませんでしたし、当時はダウンコートが今のように安く手軽に購入もできませんでした。それでも寒いところらしいということは分かった上で、当時、発売されたばかりのフリースと、競技場でスポーツ選手が着用しているベンチコートを購入してマディソンへ向かったのですが。。。どういえば分かってもらえますかね~何を着込んでも、身体が温まらない。外を歩こうとすると、ものの数分で死を意識するほど身体が凍える。毛皮のコートと帽子をかぶっている寒い国の人々を思い出し、ああ、あれがいるのね~とつくづく思いました。ちなみに、到着初日に宿泊した部屋はエアコン暖房のみだったため、寒さで夜も眠れず、掛け布団の上にコートやフリースなどを積み重ねました。それでも寒いので、子供の頃読んだマリーキュリーの伝記に、寒さをしのぐ為に家具を掛け布団の上に積み重ねた話を思い出した程です。

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何故このような話をするかと言いますと、他人にもたれた先入観を解くのは本当に時間と労力がかかるものだなぁ~とつくづく思うからです。だからでしょうね、人は、理解して欲しい自分を見た目で演出する。しかし、それにも限界はあるものです。できれば、勝手な先入観をもって他人を理解することをやめて欲しいなぁ~と日々思っております。

例えばの話、愛媛大学から東京の私立大学へ職場を移動したときの事です。松山市から八王子市への引っ越しでしたので、八王子の人々は、ここは寒いよ~、と私が寒い土地で暮らした事がまるでないかのような発言を繰り返しました。「八王子では体験できない氷点下30度も経験したよ」、といっても、「冗談でしょう」と聞く耳をもってもらえませんでした。

例えば、大学を移動した直後は、私の事を皆知りませんので、男性教員の中には「女の教員がいるはずがない」という先入観から、いろいろなことを私にする人がいます。多いのは、会議の受付の列に私が並んでいると、「教員でもないやつがこんなところに並びやがって」と押しのけられます。会議の会場に入ろうとドアに手を掛けると、「俺が先だ」と押しのけられます。もっとも驚いたのは、弁当が出る大学の仕事の際に、弁当ガラを捨てておけと投げつけられた時です。更に、大学電気系教員連絡協議会という全国の電気系の大学教員の集まりの席で、「電気系に女性の教員なんているはずがない」と、言われた事もあります。当時勤めていた大学の電気系学科の教員の代表として参加している人に向かってですよ。いずれも、私が大学の電気系の教員であることを認識すると、「松永先生でしたか~はじめまして」と急に丁寧に対応されるので、余計に残念な思いにかられます。

一般の人からの先入観で多いのは、工学部の大学教員ですというと、「ソフトウェア系でしょ?」と専門を決めつけられたり、「私立でしょ?」とか、「教員と言っても、教授職ではなく、助手でしょ?」とか、「常勤ではなく、パートでしょ?」とよく決めつけた言い方をされます。一番ひどかったのは、「どうせどっかの男にかこわれてるんだろう」です。平成や令和の時代にですよ。「どっかの男に囲われてる」ってどういう意味なんでしょうかね、笑。

どうして、ニュートラルな意識で対応できないのでしょうかね?

まぁ、見た目で大学の常勤の教授職であることを演出するのは、かなり難しいです。ですから、いつも、誤解を解くことに大変な時間と労力を要します。

米国のメンフィスで開催された国際会議で講演した時の事です。帰りの空港で手荷物を預けた際に対応してくれた係員(黒人男性)から、「メンフィスのどこが一番気に入ったかい」と質問された時の事です。「やっぱりMartin Luther King Jr.の記念館(National Civil Rights Museum)だなぁ~私、ここを長年訪ねたかったんだぁ~」と答えたときの事です。少し驚いた表情の後、優しい目で微笑み、あなたの荷物は大切に取り扱うよと言ってくれました。きっと、日本人がそんな事を答えるとは思ってもみなかったのかもしれません。(おそらく、日本人の多くは、Elvis Presleyと答えるのだと思います。)

先入観をもたず、ニュートラルに人も物事も捉えたいものです。

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2024年1月12日 (金)

新年には色々な人がこれからの1年について想いをはせる記事が目に入ります。その中でも干支にまつわる話題は多いですね。日本の暦をみると、今年の干支(えと)は甲辰(きのえたつ)とのこと。ご存知の方も多いと思いますが、干支は十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)の組み合わせで表し、60種類あります。

ここで疑問に思うのが、何故60種類なのか?10種類と12種類の組み合わせなので、120種類ではないのか?ということ。高校数学の「順列・組み合わせ」持ち出すまでもありません。答はというと、干支の組み合わせは無作為ではなく、十干と十二支を順番に組み合わせるため、10と12の最小公倍数の60種類になります。

甲辰(きのえたつ)は、東京都足立区にHPには「「甲」は十干の最初で、物事の始まりの意味。十二支の「辰」は「昇り龍」などと呼ぶように、勢いよく活気にあふれた様子を意味するとのこと。」とありました。60年前の1964年には日本で「東京オリンピック」が開催されるなど高度経済成長期の真っ只中だったようですね。

研究の話題にからめると、この高度経済成長期に建造された高速道路や橋、そして高層ビルなどの建造部の多くに劣化の懸念があり、迅速かつ適切に、そして、経済的に耐震強化できる技術が随分前から望まれています。そして、新しい建造物には、劣化と耐震性能を定量的に評価できる技術の採用も進んでいます。そして、私が専門とする電波は、非侵襲可視化技術の鍵です。現在建設が進んでいる建造物が、震災の多いこの日本においてこれからの60年を耐えることができるかどうかは、電波が握っているのかもしれませんね。

年末に冬シーズンのライトアップが施されたヘリポートを有する建造物(高層ホテル)の写真を掲載しました。数日前、この建造物をふと見上げると、「30th」の窓文字が浮かび上がっておりました。調べてみると、この日約3時間だけの演出だったとか。この高層建造物も30年が経つのですね。どんな技術で建てられたのか、とても興味がわいてきます。

※参考:オークラアクトシティホテル浜松ホームページ

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2024年1月 2日 (火)

皆様、新年のお慶びを申し上げます。

新年早々、日本では災害や大きな事故が起こっておりますが、被災地の皆様および事故に遭遇された方々にお見舞い申し上げます。一日も早い復興を祈ると共に、私にできる協力をこれからも続けていきたいと思います。

新年最初に感じた事をまず書きます。能登半島地震の地震発生時の影像を見ていて思ったのですが、動画撮影を始める人が多いこと、そして、大きな揺れに見舞われる中、大型テレビや家具が倒れないようにおさえようと行動する人の多いこと。これらがとても気になりました。

私自身は2000年3月に発生した芸予地震で被災しています。当時働いていた愛媛大学の卒業祝賀会会場で最も大きい震度(震度5強)を経験したのですが、テーブルの上のビールを押さえたり、机を押さえたりする人を多く目にしました。急いで、研究室へ向かったところ、まだ建物の外に逃げず、散乱した物品や什器を片付けようとする学生が残っていました。研究室付近にいた教員によると、彼らは、揺れている最中、本棚が倒れないように支えようと行動したとか。もしかするとこれらの行動は、日本人の良きモラルに裏付けられた行動なのかもしれません。しかし、一番大切なのは命であることを真っ先に思い浮かべてください。本棚が倒れて本や資料が散乱しようが、装置が壊れようが、乱暴な言い方で恐縮ですが、後でなんとでもできます。まずは、自分の身を守ってください。そして、残念ながら地震がもたらすエネルギーには人間はかないません。私の研究室の大変重い本棚(力自慢の大人数人がかりでも微動だにしない)が、芸予地震でも数十センチ動いたのです。そんなものを人間の力で押さえ込むことはできません。そして、動画は、自分の身の安全を確保した後に撮影をしてください。

どうしてもこのことを書き方かった松永でした。逃げることのできない状況でお亡くなりになった方々がいらっしゃること、とても残念な気持ちで一杯です。電気電子工学技術で、少しでも減災できるようにこれからも知力を振り絞って参ります。

大学院博士後期課程を修了以来、日本のみならず世界各地で大学教員生活を送り続けている松永ですが、毎年の正月は生まれ育った地元に戻っております。今年も、有り難い事に、地元で懐かしい風景を眺めながら、美味しい食を堪能し、そして、懐かしい面々と楽しく会話をすることができました。慣れ親しんだこの風景、多くの観光客に紛れて初めて撮影してみました。夜の風情の方が皆様にはおなじみかもしれません。

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私の様な生粋の博多っ子は、中洲を「なかず」と呼びますが、全国的には「なかす」と呼ばれるこの街。地形的として「洲」となっている地区の呼び名ですので、「す」と呼ぶのにも意味があると思います。この話をするときに必ず引用するのが、青江三奈さんが歌ってヒットした昭和歌謡「中洲・那珂川・涙街」。この歌のさびに「男が中洲(泣かす)という街で、女は中洲(泣かず)と意地を張る、逢えない人の噂ばなしを訪ね歩いた涙街、忘れんしゃい、忘れんしゃい、中洲 那珂川 風が吹く」というフレーズ。「なかず」とも「なかす」とも呼ばれることをよく表した歌詞だと思います。今日は、風は吹いておりませんでしたが、松永もこの歌の意味がようやっと分かる様になったことを、那珂川を渡り中洲へと歩みを進めながら思いをはせておりました。

最後はしんみりした話になってしまいましたが、今年も新しいことにチャレンジし続ける松永をよろしくお願い申し上げます。

2023年12月31日 (日)

2023年もあと僅かとなりました。皆様、どのような1年でしたでしょうか?

私はというと、年始にたまたまTVで目にした、日本で有名な占い師による運勢ランキングにおいて、自分が上位に位置していることに喜び、良い年になる事に期待が膨らんだものの、終わってみると、そういうことだったのね、と運勢というものの考え方がより深まった1年となりました。

例えでお話しすると、大きな試練に直面したものの、試練へ立ち向かう気力や体力、そして、試練を解決する方策にも恵まれ、運も味方したかのように試練を乗り越えることができた、といったような事です。試練というものには直面したくないと思う人も多いと思います。しかし、試練は乗り越えることができれば、大きな成長が得られます。そういう意味では、運気が良い時に大きな試練に直面するのは、良い事なのかもしれないと思いました。2024年は、成長した私が皆様のお役に立つことができるよう、より一層精進していきたいと思っております。

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運が良いとか、良い年とかいった言葉はとても抽象的だな~と思うのです。苦難や試練が無ければ良い年なのか?運が良いのか?と思うくらい、人は苦難も試練も嫌がります。多くの人が、苦難や試練に遭遇しないように生きる事に一生懸命のようにも思えます。中には、何事も起こりませんようにと願うあまり、チャンスさえも逃してしまう人もいます。そうなのです、何も起こらないとは、喜びに満ちあふれた出来事も起こらないのです。だったら、苦難も試練も誰の人生にも必ず訪れるものであると考えてはいかがでしょうか。その苦難も試練も乗り越えられれば良いことですし、その向こう側には成長という喜ばしい出来事も起こるでしょう。そして成長すれば、苦難も乗り越えやすいものとなるでしょう。そう考えると、大いなる成長ができた年こそが、良い年であり、運が良かったと言えるのかもしれませんね。

2024年も松永は成長をしつづけます!

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浜松駅前にあるアクトタワー(オークラアクトシティホテル浜松)の屋上にあるヘリポートが、冬仕様の照明になっていましたので撮影してみました。アクト通りと呼ばれる並木通りから撮影したので、こんな写真になりました。最近では、タワーマンションが立ち並ぶ浜松駅前ですが、45階建てのこの高層ビルはひときわ目を引きます。なんとこのビル、約30年前の1994年10月に開業したそうなのです。1991年建設開始、1994年開業、そうバブルが崩壊真っ只中の建設と開業です。あ~これって、バブルの遺物なのねぇ~と、思う方も多いと思います。「アクトシティ浜松」というバブル期の大規模構想のもと建設された建造物のひとつなのです。他には、国際会議場コングレスセンター、大中のコンサートホール、大規模展示場、複合商業施設、そして、楽器博物館があります。建設中も、また開業後の30年にも様々な苦難があったようです。というわけで、浜松市にとってはランドマークタワーだそうですが、私の目には、なんとも渋ーくうつります。ちなみに、TVドラマ「古畑任三郎」の第三シリーズ(1999年)に外観だけ登場します。ネタバレになってしまいますが、客室の窓から漏れる光を使った「窓文字」を描くホテルとしての登場だったようです。

参考:オークラアクトシティホテル浜松Facebook

2023年最後につぶやきたいこと、それは、「ありがた迷惑なお節介」についてです。今年は何度も本話題に関連するつぶやきを書いてきました。人との関わりにおいて、最も注意しなければならないこと、それは、「ありがた迷惑なお節介をしないこと」だとつくづく思いました。

よく目にする具体的な例です。

夫が妻に相談もせず、この選択が妻にとって一番だと勝手に決めつけて、大きな決断(例えば家を買うなど)をしてしまう。妻が夫に対し、「この決定は自分にとっては色々と問題がある」と言うと、夫は、「君のために一生懸命考えて下した決断なのに、それを君はむげにするのか!」と怒り狂う。妻は、「決断をする前に、私の意見を聞く機会、つまり話し合いが必要だったのでは?」というと、夫は、「いいから言うことを聞け」と言い出す。

これは夫と妻が入れ替わっても、そして、夫と妻ではなく、同僚であったり、上司と部下であったり、そして、友人同士であったりしても、同じ事です。

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要は、他者が関わる問題であるにも関わらず、その他者の意見を聞く機会(話し合い)を設けず、勝手な思い込みだけで物事を決定したり判断したりすることが、そもそものトラブルの原因である、ということです。先の例で言えば、夫は「妻が夫の決断に難癖をつけた。困った妻だ」と、妻が反論したことがトラブルの原因だ、と主張する場合が多いです。この様な考え方は間違っています。妻は、自分も関わる事柄について何の相談もしないことを問題視しているだけで、トラブルの原因は作ってはいません。更に、この例では、夫が、「君のために考えてしたことだ」と主張したり、最後には「言うことを聞け」と言い出したり、傍若無人な態度をとっています。これはまさにハラスメントです。もう一度言います、そもそも、他者も関わる問題であるにも関わらず、全く相談もせず、勝手な思い込みで事を進めたり決定した事が問題なのです。それに対し、自分の意見も聞いて欲しいという行為は、何も間違っておらず、むしろ、積極的に主張すべきことです。そして、勝手な判断をした者が、勝手な判断をしないで欲しいと言った者に対し、「トラブルを起こす気か」と言ったり、「あなたのためだ」と主張したり、ましてや「言うことを聞け」と相手を封じ込めようとしたりすれば、それはハラスメントになる、ということを覚えておくべきだと思います。

長く生きていると、人と関わる事が嫌になることも多いです。その結果、人と関わる事を拒絶してしまう人も多くいます。しかし、社会というのは人によって構成されており、生きるということは、人と関わっていくということなのかもしれません。そう考えれば、少しでも円滑なコミュニケーションができればと思うのは当たり前です。しかし、これまでは、円滑な人間関係のために、勝手な判断で話し合いもせず事を片付けようとしたり、その勝手な判断に対し反論をすることをタブー視したりする傾向が強かったように思います。しかし、そもそも、他者が関わることに勝手な判断を下し、それを押しつけようとしたことが問題なのです。

面倒くさいと思う人も多いでしょう。しかし、前にも申した通り、「手を抜いたら手がかかる」のです。ほんの少しだけ面倒くさがらず、関わる他者の意見にも耳を傾けてみてください。そうすれば、もっと人との関わりが楽しくなるかもしれませんよ。

2023年12月21日~22日にかけて、電子情報通信学会マイクロ波研究会及びIEEE MTT-S/AP-S Nagoya Chapter Midland Student Express Autumn(中部地区学生発表会)を、静岡大学工学部(浜松キャンパス)において開催しました。

マイクロ波研究会は、私が大学教員となって以来、専門委員や現地世話人として何度も開催してきましたが、静岡大学へ移ってからは初めての開催となりました。Midland Student Expressは、中部地区の学生さんが発表する場として長く親しまれてきた行事のようで、ここ数年は主催者として活動をしています。12月の研究会は、是非静岡大学で開催したいとマイクロ波研究会関係者からお声かけいただき、私の提案でマイクロ波研究会とMidland Student Expressを同時開催し、それぞれの参加者が交流出来る場を設けることにいたしました。マイクロ波研究会の関係者の方々には、同時開催へのご協力に心から感謝申し上げます。

Img_18981 マイクロ波研究会における松永研の学生さんの発表

松永研からは、2023年4月に開催されたMidland Student Express SpringでAP-S Award(最優秀賞)を受賞した大学院の学生さんがマイクロ波研究会で発表しました。発表タイトルは「高域放射特性を改善する2段テーパースロットアンテナ」です。内容ですが、高性能イメージング技術には欠かせない電磁波プローブアンテナの開発に関する研究です。電磁波を用いたイメージング技術の高性能化が期待されています。応用分野としてはマイクロ波マンモグラフィーのような生体イメージングや、コンクリート建造物の内部劣化の非破壊検査などがあります。これらのイメージング技術の高性能化には、様々な技術をそれぞれに改良し、そして組み合わせる必要があります。その中でも、イメージング用電波の送受信をするアンテナの性能は、ダイレクトに解像度に影響します。本発表では、イメージング技術に用いられるアンテナの放射特性を改善する新たな手法について提案しました。詳細は、マイクロ波研究会のホームページをご覧ください。

多くの方のご参加ならびに、発表内容に対する活発な議論ができましたこと、心より感謝申し上げます。私が大学院修士課程のころから発表をしたり、運営に関わったりと長年お世話になっておりマイクロ波研究会が、これからも日本の科学技術の礎となりますよう、私も微力ながらお手伝いしていきたいと考えております。

2023年12月11日 (月)

早いもので今年も師走となりました。毎年このブログに掲載することが恒例となりました冬のイルミネーションの写真です。このショッピングモールは毎年訪れるのですが、不景気を反映してか、年々簡素化しているように見えるのは気のせいでしょうか?もしかすると、これは簡素化では無く、温暖化を表しているのか?このように人間はいろいろと事情が分からないものに対し想像を巡らせるものです。

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最近「イチケイのカラス」という日本映画を見ました。えん罪を防ぐ為に、誰かに忖度したり、一方的な決めつけで判断したりすることなく、それこそ面倒くさがらず手を抜かずに捜査を行い、それに基づいて判断をすることの大切さを主題としている、裁判所を舞台とした漫画を原作のリーガルサスペンスだと思います。私自身は、そもそも、主観に囚われず、柔軟に物事を見通し、公平に判断をくだすことを心がけているため、その大切さを訴える漫画やドラマが世間で受け入られるようになったことに対してはうれしさを覚えます。このドラマの掲げるテーマの中でなるほどと思ったのは、「罪を犯した人にも罪を償う権利がある」というものでした。

物語で描かれているのは、誰かが罪を犯したとき、その罪を他の誰かが勝手に「かばったり」、勝手に「かぶったり」したシーンでこの「罪を犯した人にも罪を償う権利がある」ということを認識させるシーンが出てきます。このテーマには、他人の問題に他人が勝手な判断で踏み込まないこと、そして、踏み込んだことに対しまるで良い事をしてやったかのような優越感を覚えないこと、というのが背景にあるように私には思えました。

私は学生達に、勝手な思い込みをしないこと。そして、勝手な思い込みに基づく言動を他人に押しつけないこと、をいつも教えています。わかりやすい例でこれを説明しましょう。

就職活動をしていたある学生さんとの会話です。

先生:就職活動の状況はどうですか?

学生:ほっといてください。先生には関係無いでしょ?

先生:そうですね、自分なりに進めているのであれば良いですね。頑張ってください。何か相談事があれば遠慮無く言ってくださいね。

学生:自分の就職活動のやり方は特殊です。これを理解してくれる先生なんてこの世にはいないと思います。どうせ反対されたり、自分の意には反する意見をされたりするので、気にしないでください。

先生:それって、「先生というのは学生さんの意見を理解してくれないに決まっている」という勝手な思い込みに基づいていますよね。しかも、実際に目の前にいる先生は、まだ何も言葉を発していないのに、「どうせ反対したり意に反する言葉をなげかけるはずだ」と決めつけて、実際には発していない言葉をさも発したかのように想定して先生を批判したり中傷していませんか?

学生:。。。

先生:先生がどんな反応をするか試してみませんか?もしも、その結果、あなたがいうような事になれば、批判すればよいじゃないですか?

そうなんです。イチケイのカラスで出てくる「罪を犯した人をかばう」行為も、学生が「どうせ先生なんて自分を否定するに決まってる」という考えも、全て、勝手な思い込みで他人を判断しているのです。しかも前者は、「かばうことが罪を犯した人の為になる」と自尊心を高め、本当に罪を犯した人の気持ちは考慮されていない。また、後者は、実際には何もしていない先生が、学生に対し何かをしたかのようなことになっています。先生が本当は何を思い何をするかは無視されています。

このように、「どうせこうだろう」と自分の勝手な思い込みで、本来は他者にある決定権を奪う行為に対し、もう一度見直したいものです。

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ある日、建設作業現場前を通った時、写真の様な標語が掲げられているのを目にした。おもわす、「そうだよな~」と写真を撮影した。撮影した写真をよく見ると、解説文が添えられていることに気付き、その詳細についてネット検索をした。詳細は末尾の参考に記載しているブログを読んで欲しい。

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実は、私は手を抜かない人だ。それも全てにおいて手を抜かないので、手を抜きたい人たちからは「あんたみたいな人がいるとプレッシャーだ」と怒られる事がある。手を抜く罪悪感を、手をぬかない人にぶつけるのはお門違いである。それだけに、「隙あれば手を抜こう」とする学生達を見ると残念な気持ちになる。

まさにそうなのだ。「手を抜いたら、手がかかる」のだ。常に手を抜かない生活をしているからこそ言えるのは、どんなに手を抜かない日々を送っていても、手がかかることは起こる。それだけに、手を抜いたらどんなことになるのだろう、と思う。手を抜けば、手を抜いた結果しか得られないことも痛いほど理解している。だから言えるのは、「手を抜く」という選択は、「手を抜いた結果しか得られない」とあきらめていることになることをしっかりと自分自身で受け止めるべきであるということである。

人はついつい「面倒くさい」ことを嫌がる。面倒だから手も抜きたくなる。そして、手を抜かずに仕事をしようとする人を「面倒くさい人」と呼び嫌悪感を向ける。まるで手を抜かずに仕事をしようとしている人が悪いかのように。これは前述した、私に「あんたをみてるとプレッシャーがかかる云々」と言いがかりを付けてくる人と同じだ。要は、手を抜きたいが、手を抜くことには罪悪感を持つ。だったら、他の人のせいにして「手を抜いていることに対する自分への罪悪感も、自分へ向けられるであろう嫌悪感も、他人へそらしてしまえ!」としているのだ。一度の手抜きが、罪を重ねる状況を作り上げる例であると言える。

以前、判断力や創造力の重要性を記したブログの最後に、判断力や創造力を子供達が培うために親たちにしたアドバイスを書いた。「面倒だと思いますが、子供達の好奇心に付き合ってあげてください」と。そうなのです、教育も研究も、面倒なことばかりで、手がかかる事ばかりです。だからこそ、手を抜けないのです。手を抜いて育てた子どもは、きっと、手がかかる子供になるのではないですか?また、手がかからないことを自慢していませんか?(手がかかっていないように作為的になされているだけです。)

目の前の一瞬の面倒くささを回避するための手抜きが、後々、どうにも解決がつかないほど手がかかる事を招いていませんか?

「手を抜いたら、手がかかる」そう心にとめて人生をおくりたいものです。

※参考

(株)森長工務店、社長ブログ「手を抜いたら手がかかる」

https://www.morinaga-net.co.jp/blog/president/post-1937